伊治城は宮城県栗原市築館城生野に
想定されている古代東北地方の城柵(じょうさく)。
767年(神護景雲1)東北経営の最北の拠点として鎮守将軍田中朝臣多太麻呂(あそんただまろ)・道島宿禰三山(みちしまのすくねみやま)らにより造営され、翌年、翌々年にかけて柵戸の充実を図るべく百姓の強制移住が行われた。
780年(宝亀11)当城において按察使(あぜち)紀朝臣広純(きのあそんひろずみ)らが上治郡大領伊治公呰麻呂(いじのきみあざまろ)らに殺害された、いわゆる伊治呰麻呂の乱が起こっている。
796年(延暦15)には坂東(ばんどう)諸国の民衆9000人を遷置し、呰麻呂の反乱以来の荒廃の立て直しを図った。
1976年(昭和51)より発掘調査が行われ「城厨」などと書かれた墨書土器が発見されている。